この仕事を始めてから早いもので20年が経った。
独学のため師と呼べる者も無く徒手空拳でここまで歩んでこれたのは、建築のもつ懐の広さの賜物かと思う。
仕事を始めて間も無く、建築と土地の関係に関心が向くようになった。
建築は最も身近な自然である土地(敷地)から多大な影響を受けることは言うまでも無いが、建築の建つ以前から土地には脈々と続いてきた歴史があり、更にそこには地域の風土が内包されている。
そうした土地の一部を削り取る建築はとても責任を伴う行為であり、少なくとも建築は風土に相反するものであってはならないと、日々強く思うようになってきた。
そのような背景があり、10年前より千葉の田舎に居を移し地域の風土に根ざした仕事をしている。
それから今日まで周辺を見渡せば、僅か10年の間に風土は崩れ風景が変貌していることに気づく。
その多くは山林や耕作放棄地であり、大半がソーラーパネル置場や産廃場と化している。
加えて古民家と呼ばれる築100年を超える建築も、縁が続かず消えていく例が少なくない。
背景には過疎化、農・林業課題、後継者問題、農地利用のハードル等々問題は様々あると思うが、風土を守り風景を次世代に繋げていくことに対して、手間を惜しむ姿勢が根底にある様にも思える。
それら風土と引き換えに新たに挿げ替えられるモノたちは、そこまで価値のあるものなのか。
そんな疑問を感じる中
「耕作放棄地を受け継ぎ、風土に馴染む建築と土地利用を模索する暮らしを営み次世代に繋ぐ」
という試みを身を持って実践してみようと、数年前より仕事の合間に近隣の土地探しを始めた。
土地探しは現在居住している町及び隣町の耕作放棄地を中心に、ほぼ全ての接道している土地を探し続けた。
やがて周囲を山林に囲まれた、隅に集落の氏神を祀る神社が建立された土地に引き寄せられるように辿り着いた。
誰もいなかったので無断ではあるが、神社の鳥居をくぐると林に囲まれた小さな空地があり、隅に供物が供えられていた。
後に聞くと数年前の台風による土砂崩れで社は倒壊したとのことだったが、建立物が不在のその場所は静謐であり神秘的であった。(上:現在社は集落の住民により建替え中)
参拝後改めてその土地を見渡した時に、ふとその場で暮らす自分と家族の絵がありありと浮かび、鳥肌がたったのを覚えている。
その土地は所有者の承諾以外に農家では無い自分が入手するには、転用を含めた農地利用に自治体及び県の許可が必要とのことだった。
その時点で同様のケースでの許可は前例が無く、ハードルも低くは無いようだった。
許可とは平たく言えば
「あなたは本当にこの土地を農地として管理することが出来ますか。その覚悟はありますか」
という問いに対して、公的機関を納得させる返事を返すことが出来れば許可につながるというもの。
その後数か月のやり取りを経て、「農地利用のモデルケースになって欲しい」という期待を受けてようやく許可がおりた。
こうした経緯を経た今、あらためて土地に立ち考えてみる。
先ずは農地利用から進めていくわけだが、この地で暮らす身としては農地では味気が無いので、せめてここでは庭と呼ぶことにしよう。
庭の過半は果樹園にする予定である。
この庭との相性を詠み、1本ずつ果樹を植えていこう。
いずれ成長した樹々は果実をもたらし、木陰が風を生み、周囲の山林と繋がっていくだろう。
そして暮らしのための小さな家を建てる。
材料は庭や裏山から出来るかぎり頂戴する。
その庭と家を総称して「地亭 Jitei」と名付ける。
地 うねうねと連なる地
亭 とどまりくつろぐあずまや
という語源のとおり、生き物のように土地と共に息づき、緩やかに変化をしながら、とどまって仰向けになって寛いでるような庭と建築を目指す。
施主はこの土地であり風土だ。
相応しく無いものを建てたとしたら、いずれ淘汰されるだろう。
そうはならない様にこつこつとつくり続けて、わが身の先がみえたら次世代に繋ぐ風景のリレー。
永い道のりになりそうだが、その先にある風景を思い描いて歩んでいこうと思う。
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